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「文教のまち西原」の風景の移り変わり

印刷用ページを表示する 掲載日:2025年12月1日更新

沖縄県西原町長 崎原 盛秀沖縄県西原町長 崎原 盛秀​​

​ 私が幼少のころの西原村(現・西原町)は人口約1万人で、サトウキビの村と言われ、サトウキビを基幹とする第一次産業で栄えた村でした。当時は村内に大規模な製糖工場が2カ所あり、繁忙期には早朝から多くのサトウキビ運搬車両が工場入口に待機する光景が見られました。収穫期の休日には、小・中学生までもが各家庭から搬出作業に駆り出されるのが風物詩になっていたことをよく覚えています。

 沖縄県の本土復帰50年余が経過し、本町も都市化が進み、人口は、約35,000人にまで増加しました。要因の一つに、昭和52年に国立琉球大学が那覇市首里から西原町千原へ移転したことがあり、大学周辺では土地区画整理や土地開発が行われ、流入人口が一挙に増えました。産業構造も第一次産業中心から二次産業・三次産業へと大きく変化し、町並みも大きく変化・発展を遂げ、昭和54年に町制施行して西原町となりました。

 教育環境も整備され、琉球大学をはじめ、沖縄キリスト教学院大学・短期大学、放送大学、西原高等学校などの教育施設が立地し、幼児教育施設から大学まで一貫した教育環境が整っております。本町は昭和57年の基本構想で「文教のまち西原」を掲げ、その理念に基づいて教育施設を活用した人材育成・人づくりに力を注いできました。また、平成24年度には、「西原町まちづくり基本条例」を制定し、「文教のまち西原」を将来像に掲げ、町民、事業者、議会、行政が一体となって協働のまちづくりを進めています。

 西原の町名は、首里王府(首里城)から見て北側に位置する地域で、沖縄方言で北を「にし」と呼ぶことに由来すると伝えられています。沖縄本島中南部に位置し、東西約5km、南北約5km、面積約15.9km²で、県庁所在地の那覇市から約10km圏内にあるため生活利便性が高く、北西部の丘陵地から南東部の平地にかけて肥沃な農地や自然が広がり、中城湾に面する風光明媚な地域です。

 臨海部北側には石油貯蔵施設や約180社にのぼる各種企業が立地し、県内有数の工業集積率、出荷額を誇っています。一方、臨海部南側ではマリンタウンプロジェクト(西原・与那原地区142ha)の埋め立てにより、西原きらきらビーチや緑地公園などのスポーツ・レクリエーション施設が整備されており、ビーチバレーやビーチサッカーの全国大会が開催されるなど、年間約100万人の観光客や遊泳客が訪れる観光リゾート拠点としてにぎわっています。また、西原町と与那原町にまたがるマリンタウン地区には大型MICE施設の誘致が決定しており、本町並びに東海岸地域の活性化の起爆剤として多くの町民が早期の整備を期待しています。

 また、本町は伝統芸能も盛んで、大綱曳きをはじめ獅子舞、棒術、組踊りなどが各地域で伝承されています。こども達の活躍も顕著で、文化面では特に西原高校のマーチングバンド部が、4年に一度オランダで開催される世界音楽コンクールにおいて毎回優秀な成績を収め、2022年大会ではチャンピオンシップのショー部門で優勝し、総合1位の栄誉を手にしています。スポーツ面では町内の小・中・高校が県内バレーボール強豪校として知られ、「バレーボールの町」宣言を行っております。こうした先人たちが作り上げた地域資源を活用し、西原町の魅力を発信してさらなる発展につなげていくことが、私たちに課された使命だと考えています。

 先日、小学生のキャリア教育の一環で、「町長の仕事」について講話をしました。私から「西原町のまちづくり」と「大切にしてほしいこと」についてお話ししましたが、特に伝えたかった「大切にしてほしいこと」の三つの要点は次の通りです。一つ目は「初心忘るべからず」。将来の希望や夢に対する初心を胸に、最後まで諦めない心を大切にしてほしい。二つ目は「感謝」。これまで支えてくれたご両親や家族、恩師への感謝の気持ちを忘れないでほしい。三つ目は「絆」。困ったときに頼れる家族の絆や、小学校で共に学んだ友人との絆を大切にしてほしい。という3つの言葉を贈りました。時代が移り、町並みや風景が変わっても、この三点だけは忘れないでほしいと願っています。

 「文教のまち西原」で育った、明日を担う子どもたちには、さらに飛躍した西原町の「未来の風景」を自らダイナミックに描いてもらいたいと考えています。