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原子力政策と我が人生

印刷用ページを表示する 掲載日:2025年10月6日更新

山口県上関町長です山口県上関町長 西 哲夫 ​​

 上関町は山口県の最南端に位置し、三方を瀬戸内海に囲まれ、2つの有人離島があり、自然豊かで温暖な気候に恵まれています。古くは海上交通の要衝として北前船、朝鮮通信使船の寄港地として栄えていました。昭和合併時は12、749人いた人口も、町には若者が就職できる企業がないため、学校を卒業すると大多数の若者が他市町に就職せざるをえない状況が続いており、現在の人口は約2、140人と激減し、高齢化率も59%を超え典型的な少子高齢、過疎の町となっています。

 先人達はこのような事態が来ることを予測し、昭和57年に中国電力による上関原子力発電所建設計画を誘致決議し、紆余曲折はありましたが、2011年3月の福島第一原子力発電所事故当時には既に準備工事が始まっていました。事故の影響を受けて工事は中断し、産業の衰退、人口減少、財政の健全化が懸念されるなか、2021年9月に前町長が病気療養のため任期途中で辞職されました。辞職に伴い、町長選挙が10月18日告示23日投開票と告知されました。私は議員として27年、当時議長として9年目を迎え74歳になっていました。議員も今期限りで勇退することを決めていました。町には原子力発電所建設推進6団体があり、町長候補擁立のため各代表者が何度も会議を重ねましたが、候補者が決まらない状況でした。告示日まであと20日と迫っていた会議で、漁協組合長さんに、「議長、町を助けてくれ」とお願いされました。この方は「末期がん」で入退院を繰り返されていました。そのような状態でありながら、町の将来を心配される姿に胸が熱くなったことが今でも鮮明に思い出されます。私は何度も高齢を理由に立候補要請を断っていましたが、この方の言葉で立候補を決意しました。しかし、家族や親戚には、高齢でこれ以上苦労することはなかろうと反対されました。

 私が議員になったときも補欠選挙でした。町長選挙と同日選挙で原子力発電所建設の賛否を問う選挙で議長、漁協組合長、団体の有志が立候補要請で毎晩毎晩我が家を訪ねてきました。その都度お断りするのですが、君には首を横に振る返答はない、首を縦に振れと引き下がりません。親父は家業(運送業)を潰すのか、中学2年の長男も猛烈に反対し、「不登校をする」と涙ながらに訴えてきました。家族をバラバラにしてまで町議選に立候補するべきではないと決意し、お断りをしましたが、要請に来られる面々は引き下がりません。どうしたものかと妻と朝方まで出処進退について話しました。原子力発電所建設推進団体の会長を引き受けていたものですから責任上やむなく告示1カ月前に立候補を承諾しました。私は議員、町長とも自ら志願して立候補したわけでもなく、原子力発電所関連事業は私に課せられた宿命のように感じています。

 町長に就任し、今月で3年を迎えました。議長時代とは比べものにならない重圧の中での職務で、大変な役を引き受けたものだと痛感しています。町の課題は、少子化と人口減少、定住・移住対策、産業の振興、財政の健全化に注力していかなくてはなりません。半島島しょ部の行き止まりの町で「持続可能な町づくり」の取組は困難極まりない状況ではありますが、私たちの町は43年前から原子力発電所建設での町づくりを住民多数の支持で進めてきました。原子力発電所建設準備工事が中断している状況で、町長に就任した4カ月後に中国電力に対し、地域振興策の要請を申し入れました。申し入れから半年後に「使用済み核燃料中間貯蔵施設」の調査・検討の回答を受け、議会の意向を伺い、調査検討の受け入れを決断しました。現地でのボーリング調査は昨年4月に始まり、同年11月に終えました。中間貯蔵施設の報道があると、我が家に嫌がらせの電話が何度もあります。しかし、上関町の地理的状況を考えれば、先人が取り組んできた原子力政策は間違っていないと思います。難題を抱え厳しい道のりではありますが、次の世代に「ふるさと上関町」を存続できるよう力を尽くす覚悟です。