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町村会との出会いに感謝

印刷用ページを表示する 掲載日:2025年12月1日更新

早稲田大学名誉教授 宮口 侗廸 (第3341号 令和7年12月1日)

 筆者は富山県の岐阜県境の山村旧細入村に育った。今は合併で富山市になっている。昭和初期から当時の国鉄高山線の駅があり、山間の集落にしては駅前通りに商店街らしきものがあった。わが国の田舎の集落はどこに行っても人付き合いが濃く、会話も多いが、ここもその例に洩れなかった。父の仕事の都合で高校時代に富山市に引っ越したが、しばらくは付き合う人もなく、友人も高校以外にはできず、村と都市の違いを実感することになった。

 大学は東京で、博士課程の時に、幸い早稲田大学に職を得ることができたが、あわただしく電車に乗る東京の暮らしにはなじめず、30代の終わりごろに、家族ともども富山に帰ることにした。東京2泊3日の通勤に経費はかかるものの、東京時代の家賃を考えれば、精神的な負担は少なかった。最初はまだ北陸新幹線はなく、月曜朝6時過ぎの在来線の特急で長岡から新幹線に乗り換えるというコースで、上野まで4時間半ぐらいだったかと思う。

 富山に帰ってしばらくしたころ、大学の恩師西川治先生から、全国町村会で大森彌先生と研究会をやることになったので参加しないかと連絡をいただいた。富山に帰ったとたんに東京の仕事とは皮肉なものだと一瞬思ったが、これもいい機会と考えて、長く町村会に関わらせていただくことになった。この週報の欄にも、相当数書かせていただいただけではなく、多くの町村を訪ねる機会を得て、本当にありがたかった。町村会に育ててもらったと言っても過言ではない。

 特に当時すでに著名な行政学者であった大森彌先生に目をかけていただき、町村会のみならず地方自治体を始めいろんな方面に縁をつくっていただいたことは、わが人生をかなり豊かなものにしてくれたと思っている。感謝したい。

 今の日本は、いろんな組織でシステムが整いすぎて、新しく発展の芽を育てる機会がなくなってきているように思われてならない。こちらが老境に入り直接の縁が減ったせいもあろうが、もっと多方面から大きな声が上がる社会の方がより健全ではないかと思えてならない。町村関係者に期待するところ大きいものがある。